下田会議、日米議員交流、そして日米欧委員会(現・三極委員会=トライラテラル・コミッション)−。戦後日本の国際化を彩る数々の対外交流を陣頭に立って進めてきたのが、日本国際交流センター理事長の山本正さん(71)である。欧米、そしてアジアの政財界と日本をつなぐ懸け橋として「タダシ・ヤマモト」の名前は今日も世界を駆け巡る。
■ 幼年時代は海外暮らし 神父の道めざす
実父が商社に勤めていた関係で、物心もつかないころから海外暮らしをしていました。一九三六年三月に神戸で生まれ、数カ月後には香港へ。それからインドのボンベイ(現ムンバイ)に転居し、三歳まで過ごしました。その後、いよいよ軍靴の響きが強くなり、母は父を残して五人の子供とともに神戸に戻りました。
戦後、イエズス会が設立した六甲中学・高校を卒業した私は、キリスト教の影響を強く受け、そのまま神父の道を目指すつもりでいました。大学もイエズス会直系の上智大学(文学部哲学科)を選びました。
後に上智大の学長となる長兄の後を追うように神父の道を志していた山本さんに、最初の転機が訪れる。米国・ウィスコンシン州にあるカトリック系の大学(セント・ノーバート校)に留学する。
■ 留学先でケネディと「会話」 社会運動に目覚める
留学先ではリベラル・アーツ(教養科目)を学ぶ、ごく普通の学生でした。米国内ではジョン・F・ケネディが大統領選挙に出馬し、マーチン・ルーサー・キング牧師が公民権運動の先頭に立っていたころです。ケネディが提唱した、途上国援助のボランティアである「平和部隊」に友人の多くが参加し、とてもうらやましく感じました。
ある時、私がアルバイトをしていた食堂に全米の目が注がれます。当時、ウィスコンシン州では酪農事業の将来が大統領選の争点となっていました。そこでカトリック系信者としては初の有力候補だったケネディが遊説先として私の大学を選び、私がボーイをしていた食堂で昼食を取ったのです。
緊張してテーブルに向かうと、ケネディは例の甲高い声で私に話しかけてきました。「すみませんが、ミルクを一杯、もらえますか?」発言に政治的意図があったかは分かりませんが、ケネディの軽妙な応対に強い印象を受けました。こうした経験を経て、私は留学期間を延ばすことにしました。イエズス会系の別の大学を受験、そのビジネススクールに二年間通いました。
ケネディ大統領、キング牧師という歴史上の偉人を目の当たりにした山本さんはやがて、公民権運動など社会運動に目覚めていく。興味の対象も、閉ざされた神学の世界から、より大きな世界へと広がっていった。
このころ、カトリックの世界でも大きな変化が起きます。バチカン公会議が開かれ、教会がもっと自由で、開かれたものになろうとしていたのです。連動するように私の中でも「戒律を重んじる宗教ではなく、もっと愛やコミュニティーといった普遍的な価値に貢献できないか」との感情が強くなりました。いわば米国流の「リベラルなアクティビズム」に洗礼を受けたのです。目指すべき道が見えた私は、帰国を決意しました。六二年の遅い春のことでした。 (2007年5月14日月曜日 夕刊)
■ 「ケネディ」と再び縁 信越化学社長の下で国際活動
米国から帰国した山本さんを待ち構えていたのは、またも「ケネディ」だった。当時、ケネディ大統領の実弟で司法長官のロバート(ボビー)・ケネディ来日を招請していた信越化学工業の小坂徳三郎社長(後の衆院議員)の下で、対外関係秘書として新たな活動を始める。
一九六二年七月の帰国直前に「小坂さんのところで国際的な活動を行うので、アシスタントを探している」という情報が人づてに耳に入ってきました。あのボビー・ケネディを日本に呼んだ人だ、というのです。このケネディという言葉に私は即座に飛びつきました。
帰国して一週間後に小坂さんとの個人面談に臨み、その一週間後には東京・丸の内にあった信越化学のオフィスで働き始めていました。最初にいただいた会社での肩書は「社長付」でした。
ボビーを日本に招くという考えは当時のライシャワー駐日米大使が温めていたものです。当時、この企画を手伝っていた人の中には東急エージェンシーの社長だった前野徹さんらがいました。あのころ、小坂さんは「従来とは違ったタイプの国際化をやりたい」と漏らしていました。「有志の会」と称して勉強会を開く小坂さんの下には、後の佐藤政権で沖縄返還交渉を巡って重要な役割を演じることになる若泉敬さんも頻繁に顔を出していました。
■ 日米教師交流に携わる 沖縄返還交渉、人脈づくりに一役
米国留学で培った英語力とタイプライターの技量。そして何よりも新たな使命感に燃える山本さんは、始業一時間前からタイプの前に座り、社長直々の「特命」を次々とこなしていった。
最初にいただいた指示は、信越化学と直結する半導体事業の米国パートナーとの調整という業務でした。しかし、次の仕事から内容が一変します。米国のフォード財団が主体となってコロンビア大学のハーバート・パッシン教授らが提唱していた「日米教師交流」というプロジェクトを立ち上げよ、というのです。当時は日教組がとても活動的だったのですが、これに対抗する勢力を育てるという思いが経済界にはあったようです。
小坂さんから「とにかく向こうに行って、交渉してくれ」と言われ、そのままこのプログラム発足を手がけることになりました。最終的にこの計画は「現場教師米国短期留学プロジェクト」として発足し、六四年から四年間にわたって小・中・高の日本人教師約四十人を米国に送り出すことになりました。
六〇年代初め、池田内閣で外相を務めた小坂善太郎さんの実弟でもある小坂徳三郎さんはライシャワー駐日米大使と共に、ケネディ大統領の国家安全保障問題担当補佐官であるマクジョージ・バンディ(後のフォード財団理事長)の腹心とされたウォルト・ロストウ特別補佐官の来日実現を試みる。水面下で工作したのも若泉・山本のチームだった。
ロストウ来日もライシャワー大使の発案から始まっています。大使が小坂さんに相談を持ちかけ、小坂さんは若泉さんに依頼し、アシスタントに私を指名したのです。
ロストウは六五年四月に来日しますが、その実現のために行動を共にした若泉さんの人格、見識にはいたく感激しました。ロストウの来日後、若泉さんらとホワイトハウスを訪問したこともありました。
あのころ、日米関係はベトナム問題や沖縄返還問題など多くの難題を抱えていました。ロストウの来日を契機に、若泉さんは彼との個人的関係を深めたのだと思います。そうした縁もあって若泉さんは後に沖縄返還交渉を巡り、重要な役割を演じることができたのだと思います。 (2007年5月15日火曜日 夕刊)
■ 「下田会議」立ち上げに奔走 ドライブで偶然、会場決める
経済大国への道を歩み始めた日本への米国政府・議会の関心を反映し、山本さんに新たな課題が持ち込まれた。米コロンビア大学に設置されている「アメリカン・アセンブリー」から「日米関係を考える会議を立ち上げたい」と相談されたのだ。
アメリカン・アセンブリーは、鉄道王といわれたハリマンが保有するアーデンハウスと呼ばれる私邸で毎年、米国各界の有力者を集めて固有のテーマをとりあげてじっくりと議論する場として知られていました。そのテーマとして日米関係が取り上げられたのは一九六五年の十月末のことです。
ほどなく窓口役のハーバート・パッシン米コロンビア大学教授から連絡があり、フォード財団が中心となって「ジャパニーズ・アメリカン・アセンブリーとして、フォローアップをやろうじゃないか」ということになりました。これが後に「下田会議」と呼ばれることになります。
民間日米交流の場としては草分け的な存在となっている下田会議だが、誕生までには多くの曲折があった。
米側からの打診を受けて早速、小坂徳三郎さんに相談しました。当初、米側は財団法人の国際文化会館に手助けを要請するのですが、あくまでも討議結果を本にしてまとめたいとする米側と「ステートメントは出せない」とする日本側とで折り合いがつかず、我々が折衷案を模索することになりました。結局、私がひねり出した「ステートメントではなく、討議要約を発表する」という案でまとまり、ようやく六七年九月に記念すべき第一回の「下田会議」が実現します。
会議の舞台が下田になったのは本当に偶然です。当時、会議場を探すため、パッシン教授と二人で伊豆半島をドライブしていた時、下田にあるホテルを目にした教授が「あそこがいい」と言ったのがきっかけです。アーデンハウスに雰囲気が似ているというのが主な理由でした。同時に地形上、警備がしやすいことも決め手となりました。
■ 日米の有力者 勢ぞろい デモ隊から抗議文受け取る
当時の米国の日本に対する関心の高さを示すかのように、米側からは後に駐日米大使となるマイク・マンスフィールド上院院内総務やドナルド・ラムズフェルド下院議員(後に国防長官)ら米政界の有力者、若手有望株が多数参加しました。
日本側の関心も高く、マンスフィールドさんの基調演説が主要紙の一面トップ記事になったのを覚えています。
日本からも保守系エスタブリッシュメントを代表する人材が多数集結しました。その会議場には予想通り、多数のデモ隊も押しかけました。彼らから「米帝の走狗(そうく)である山本」などと拡声機で名指しされたにもかかわらず、警察当局に「デモ隊の代表に会ってほしい」と言われ、日本側参加者の一人だった中曽根康弘さんと一緒に抗議文を受け取りました。
その後、軌道に乗った下田会議は、後の日米関係を支える貴重な人材を日米両国で数多く育成していくことになる。
第一回会議の内容はパッシン教授と国際政治学者の武者小路公秀さんが取りまとめ、「日米関係の展望」という一冊の本にしました。これに続いて六九年に開催した二回目の会議で、パッシン教授から驚きの提案がありました。討議の取りまとめ役として当時、新進気鋭の日本学者として頭角を現しつつあったジェラルド・カーティスさんを推薦してきたのです。
この時、カーティスさんはまだ二十九歳。まもなくコロンビア大の助教授になろうとしているところでした。打診を受けた時は半信半疑でしたが、カーティスさんは見事にまとめ役をこなし、神谷不二さんと共に「沖縄以後の日米関係」と題した本にまとめあげました。後にカーティスさんが米国を代表する日本政治学の権威になるのは、ご存じの通りです。 (2007年5月16日水曜日 夕刊)
■ 小坂徳三郎氏との別れ 人脈頼りにJCIEの看板掲げる
一九六七年に下田会議を立ち上げて以来、日米両国をつなぐ民間主導の懸け橋外交に奔走していた山本さんに人生最大の転機が訪れる。帰国以来、文字通り一心同体となって歩んできた小坂徳三郎さんとの別れだ。
下田会議から派生する形で、六八年には日米議員交流も始まりました。米側ではマンスフィールド上院院内総務が旗振り役を務めてくださったこともあり、多くの有力議員が来日。その中には現在のブッシュ政権で国防長官を務めたドナルド・ラムズフェルド下院議員の顔もありました。
一連のプロジェクトが軌道に乗り始めた六九年、小坂さんが国政に打って出て衆院議員になりました。「このまま自分の秘書として残ってほしい」と言ってくださいましたが、私は首を縦には振りませんでした。
それまで手がけた事業はいずれも日本の将来を考えたもので、一個人の損得勘定に基づくものではありません。小坂さんには言葉にできないほどお世話になりましたが、その誘いに応じたら自分は一人の国会議員の秘書になってしまう。それでは目指すものを実現できない、と思ったのです。
そのころ仕掛けていた米議員団の来日が翌七〇年初だったために、混乱もありました。小坂さんは当初計画通り、ご自分の名前で議員団を招くことに固執されたのですが、米コロンビア大学のジェラルド・カーティスさんと「一国会議員の名前で招待するのは無理がある」という結論に達しました。結局、六九年の大みそかの晩にカーティスさんと二人で米国に電報を打ち、来日計画のキャンセルを伝えました。
年明け早々、三つの辞表を書きました。小坂さんが委員長を務めていた国際親善日本委員会および国際教育会あて、そして信越化学工業あてのものです。私の気持ちが動かないことを知って、最後は小坂さんも私の辞意を受け止めてくれました。
山本さんは正式に小坂さんのもとを離れ、日本国際交流センター(JCIE)を設立する。東京・赤坂にあった国際親善日本委員会事務所から私物を引き払い、青山一丁目の小さなアパートにJCIEの看板を掲げた。日米双方で培った人脈だけが頼りの、文字通りゼロからの出発だった。
JCIEという名前は偶然、仲間内で酒を飲んでいる時に思いついたもので熟考の結果ではありません。当時はあまり「国際交流」などという名称ははやっていなかったので、それでいいんじゃないか、と。
■ ご多分に漏れず金策に苦労 井深大氏にも助力願う
発足当初はご多分に漏れず、金策に苦労しました。ある時、米フォード財団が助成する教育業務に必要な資金が手続き上の不備で必要な時期に届かず、青くなりました。当時のお金で三千万円だったと思います。
困り果ててソニーの井深大さんに相談すると、富士銀行を紹介してくださり、特例として短期の借金を認めてもらえました。井深さんは後に「さすがに盛田(昭夫)君にしかられた」と笑っておられましたが、本当に多くの人たちに助けていただいたおかげで今日があると思っています。
JCIEは小坂さんが主宰していた国際親善日本委員会による日米議員交流プログラムなどを引き継ぐ。だが当時の山本さんは、小坂さんへの複雑な心境を胸に抱えたままだった。
国際親善日本委員会といっても、下田会議と日米議員交流以外は、実体はほとんどありませんでした。とはいえ、小坂さんと始めた日米議員交流を自分のところでやるのは正直、心苦しかった。何度も慰留されたのに断って飛び出したのですから、当然です。それでも小坂さんは、私の独立とともに一定の金銭的支援を申し出てくれました。
JCIEの設立二十五周年式典には病床からメッセージを寄せてくださり、「二十余年の活動に敬意を表します」とおっしゃってくださいました。それからしばらく後、出張先のサンフランシスコで小坂さんの訃報(ふほう)を耳にしました。自分でも不思議なぐらい涙が止まらなかったことは今でも覚えています。 (2007年5月17日木曜日 夕刊)
一九七〇年代初め、自らを見いだしてくれた恩人の小坂徳三郎さんから独立した山本さんのもとに、大プロジェクトが舞い込む。日本国際交流センター(JCIE)の名前を一躍世に知らしめた日米欧委員会。トライラテラル・コミッションの別称でも知られる会議にはキッシンジャー元米国務長官らをはじめ日本、米国、そして欧州の政財界人、知識人が一堂に会し、世界でもまれな知的交流の場に発展した。
今では三極委員会の名称で知られる日米欧委員会の発案者は、米ロックフェラー一族のデビッド・ロックフェラーです。一九七二年に呼びかけがあって、七三年の十月に東京総会を開催します。日本では宮沢喜一さんや大来佐武郎さんがカウンターパートとなり、私も事務方としてお手伝いしてきました。
■ 「政府の下請けにならない」 支えの寄付 落ち込み危惧
数多くの民間主導外交を進めてきた山本さんには一つの信念がある。それは「市民外交」を推進する公正中立の財団法人として、国にも特定の機関にも頼らず一切の補助金も受け取らない、ということである。
これまでの足跡を振り返ると、フォード財団をはじめ米国の財団助成や日本の企業寄付などのフィランソロピー(社会貢献・寄付活動)があったからこそ、やってこられたのだと思います。そもそも日本という国では、JCIEのような非営利団体はロジカルな、受け入れられる存在ではなかったのでしょう。それでもこれまで「政府の下請けにはならない」と誓い、現在も四億円強の基本財産と助成や寄付だけで何とかやっています。
八〇年代までは三極委員会の趣旨に賛同してくださった日本企業は四十六社でした。現在は一社当たり百万円という金銭的支援を申し出てくださる企業は十九社に減りました。かつては経団連会長だった平岩外四さんらに大型の募金活動へ協力していただいたこともありましたが、現在はそうした動きもありません。
あのころはグッド・コーポレート・シチズン、良き企業市民などという言葉も流行しましたが、今は完全に逆風です。バブル崩壊後、そうしたものへの経済界のサポートは急速に落ち込みました。しかし、企業によるフィランソロピーがなければ、民間主導の対外交流はさびれていくばかりです。
対外交流のような公益は官だけではなく、多くの市民が参加することによって成り立つものです。にもかかわらず、日本にはそれを支えるインフラが絶対的に足りない。日本のNPOや財団はあまりに脆弱(ぜいじゃく)です。これらを育て、強化していくということに日本全体が取り組まないと、きちんとした対外関係は築けないのではないかと危惧しています。
■ アジア一丸で欧米と交流 世界の頭脳結ぶ役割担う
政策対話を柱に据えて米国、そして欧州へと交流の場を広げてきた山本さんが今、最も目を向けているのはアジアである。
日本の世界における役割、ということをかねて考えてきましたが、特にアジアにおける役割に目を向ける必要があります。国際社会の健全な運営や東アジア共同体の構築のために、中国、韓国や東南アジアとともに「アジア」として欧米と交流を進める必要があるからです。それは決して「脱米」などではないと考えています。
今後は単なる交流ではなく、より知的な中身が求められる時代です。こうした問題意識から、九〇年代後半からは準シンクタンク的な役割も目指しています。世界各国の研究機関、研究者と広範な関係を築き、多様化する国際社会から派生する政策課題に対応するネットワーク型のシンクタンク創出を目指すグローバル・シンクネットという構想を立ち上げました。
これまでのように官だけに頼るのではなく、自発的な集団として市民のつながりを充実させるシビル・ネット事業も推進中です。これらを従来から進めている各国との政治交流・対話と重層的に関連させることで、二十一世紀の国際社会における日本の役割をこれからも考えていきたいと思っています。 (2007年5月18日金曜日 夕刊)
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