海外紛争での邦人救出問題にいかに対処するか


邦人・外国人非戦闘員の救出と難民救援に関する政策提言


獨協大学教授
竹田いさみ


『日本の外交・安全保障オプション』(日本国際交流センター刊 1998年6月)より抜粋


問題提起

カンボジアの首都プノンペンで1997年7月5日、フン・セン第二首相派とラナリット第一首相派との間で武力衝突が起き、日本人を含む100人以上が死傷した。武力衝突は首都中心部と外で同時に発生し、プノンペンのポチェントン国際空港も被弾して閉鎖され、民間航空機の離発着は不可能となり、多数の外国人は武力衝突が続くカンボジアに足止めを余儀なくされた。市内では銃撃戦と略奪行為が横行し、大半の外国人はホテル・カンボジアーナなどの主要ホテルに避難せざるをえない状況であった。一方、カンボジア国民は内戦の再発と受けとめた者も多く、カンボジア西部や北部では多数のカンボジア人が、タイに安全地帯を求めて陸路で移動し始めた。再びカンボジアで大量の難民が発生する危険性が高まったことになる。国連のアナン事務総長が7月7日、「情勢はなお流動的で混乱し、かつ極めて危険だ」との声明を発表したように、カンボジアは危機的な状況にあると判断された(1)。凄惨な内戦への逆戻りではないかとの危機感が、国際社会を支配した数日間でもあった。

カンボジアにおける武力衝突は、冷戦後の紛争が抱える2つの共通した問題を国際社会に提起している。第一の問題は、紛争地域から外国人の非戦闘員を救出することであり、第二は紛争地域における難民の救援という、いずれも人道的な問題である。今回は、武力衝突が短期間に沈静化したため、後者の問題が大きくならなかったが、仮に大量の難民が発生した場合、紛争地域における難民救援という新たな難問が提起された可能性が高い。この度のカンボジア政変で日本は、邦人の救出という第一の問題に取り組むことになったが、第二の問題が同時に存在する可能性も十分認識しなければならない。

本稿では、カンボジア政変で発生した邦人救出という問題を通じて、第1節では紛争地域における邦人の救出、外国人非戦闘員の救出問題を、さらに第2節においては大量難民に対する国際的な人道救援活動において、日本が直面する制約と問題点を整理し、その処方箋を検討する。

第1節 カンボジア政変と邦人救出問題

カンボジア政変の発生

7月5日、6日にわたって繰り広げられた武力衝突は、7月4日にパリへ脱出したラナリット第一首相が、フン・セン第二首相による「明らかなクーデターの企てだ」と非難したように、実質的には軍事クーデターであった(2)。もちろん今回の武力衝突は国内における権力闘争に過ぎず、パリ和平協定も順守して1国2首相制を維持しており、形式上は何の重大な変更もないと考えれば、これは政変や軍事クーデターではないとの見解も成り立つ。しかし、第二首相派の軍事力によって第一首相派が実質的に追放され、第二首相派が全権を掌握する政治プロセスを振り返る時、これは素直に政変と受け止めた方が理解しやすい(3)。欧米を中心とする国際メディアはいずれも「政変」、「クーデター」と表現しており、本稿でもこの立場をとる(4)。

今回のカンボジア政変は7月5日に発生、翌6日にはフン・セン派がプノンペンをほぼ制圧したが、プノンペン郊外や西部国境線地帯および北部地域では、散発的な武力衝突がその後も続き、1998年1月段階においても収束していない(5)。1997年7月下旬にはASEAN(東南アジア諸国連合)外相会議やASEAN地域フォーラム(ARF)が予定されており、カンボジアのASEAN正式加盟が目前に控えていただけに、7月初旬にフン・セン第二首相が軍事行動に訴えるとは、ASEAN諸国の政府関係者にとっても予想外の事件であった。フン・センにとっては、国内における権力掌握が第一の優先課題であり、ASEAN加盟は極めて重要ではあるが、緊急の課題ではなかったといえよう。この政変によってカンボジアのASEAN加盟は、少なくとも1998年に予定されている総選挙まで見送られることになった。

邦人・外国人の救出問題

当時カンボジア国内には、おおよそ440人の日本人が滞在中で、うち日本大使館に在留届けを提出している長期滞在者が約300人、観光や商用など短期滞在者が約140人であった。440人の日本人をいかに救出するかbこれが日本政府に突き付けられた危機管理の問題であった。こうした中で、カンボジア北西部のバタンバンで援助活動を展開していた日本のNGO関係者などは、国連の車両などに分乗して、陸路でタイに脱出することが可能であった(6)。しかしプノンペンから陸路で隣国のベトナムやタイに脱出するにも、幹線道路の状況は悪く、大型バスなどの輸送手段の確保も困難で、しかも長時間にわたる陸上輸送の段階で、両派の武力紛争に巻き込まれる危険性も十分考えられた。

このため日本人を含む外国人の長期滞在者と、観光客などの短期滞在者の保護が求められた初期段階では、軍用機を含む航空機を利用した救出作戦か、トンレサップ湖から民間船舶のチャーターによる救出の二つの選択肢しか残されていなかった。武力衝突が沈静化し、ポチェントン空港も再開されて民間航空機が自由に利用できるのであれば、民間航空機を利用して自力で脱出すればよい。しかし、ここで問われなければならないのは、民間航空機が利用できない紛争地域における邦人保護の問題であり、海外における危機管理の問題であった。

海外における自国民の保護にいかに対応するかは、日本ばかりでなく、カンボジアに経済進出たり、援助活動を展開しているタイ、シンガポール、マレーシア、フィリピン、米国、オーストラリア、台湾も同様であった。例えばタイ、シンガポール、マレーシア、フィリピン、米国、オーストラリアは、武力衝突直後に空軍の輸送機を派遣する準備態勢にすでに入っていたし、台湾は民間機のチャーターを手配する検討に入っていた。なかでもタイ空軍はカンボジア当局者から早い段階で着陸許可を取り付け、プノンペン在住のタイ人850人を救出するために、7月8日に延べ8機の軍用輸送機を閉鎖中のポチェントン空港に派遣し、同日に約730人の救出に成功している。タイ空軍の輸送機には米国など14ヶ国の外国人も便乗しており、市街戦に巻き込まれて死亡した日本人の遺体もバンコクに空輸された。この場合、タイ人を救出することがあくまで主要な任務であり、日本人の救出は可能ならば、また余力があれば実施するというものであり、邦人救出に関しては何の保証もなかったといってよい。その後、タイ政府は空軍輸送機と併用して民間機を動員し、邦人を含む多数の民間人を救出することに成功している。またカンボジアと国境線を接しているため、国境付近での武力衝突に警戒したり、戦火を逃れて脱出してきた外国人旅行者・NGO(非政府組織)関係者やカンボジア難民を保護するなど、周辺諸国の中でタイはカンボジア問題に深く係わらざるをえない立場にあった。

シンガポール空軍はプノンペン在留のシンガポール人約200人を、危機管理マニュアルに従って、ほぼ全員空輸することに成功している。シンガポールは1997年1月頃からカンボジア情勢の悪化を憂慮し始め、すでに5月段階において有事の際におけるシンガポール人の救出に関する事前準備に着手していた。米国空軍はプノンペン滞在中の米国人と西部バタンバンで足止めされていた米国人旅行者の救出用に、7月9日からタイのウタパオ海軍基地にC130軍用輸送機10機と大型ヘリコプター3機を待機させた。またオーストラリア空軍はカンボジア在住のオーストラリア人を主体に、ニュージーランド人、カナダ人など旧英連邦諸国の民間人を救出するため、オーストラリア北部のダーウィン空軍基地からC130輸送機を派遣し、7月11日までにプノンペンで約160人を救出して、マレーシアのペナンに輸送するなど、救出活動には各国ごとに特色がある(7)。そして、ポチェントン空港が本格的に再開して、タイやベトナムなど複数の民間航空機が7月11日以降に離発着するようになった段階で、救出作戦にあたった外国政府は軍用機の派遣を中止した。日本政府が自衛隊機をタイのウタパオ海軍基地に派遣したのは7月12日であり、外国政府が多数の軍用輸送機を派遣して、自国民および外国人の救出作戦をほぼ終了した直後であった。

遅すぎた日本の対応:自衛隊機派遣の経緯

日本では橋本首相の指示によって、海外の紛争地域における民間人の救出という局面で、はじめて航空自衛隊のC130輸送機3機を派遣したものの、実際の救出活動には参加することができなかった。紛争地域における邦人の救出に、航空自衛隊が派遣されるというのは画期的なことであったが、一人の邦人も救出することができないという結果に終わってしまった。このため、カンボジアの在留邦人からは、遅れた日本政府の対応を批判する声も聞かれるようになった(8)。国際貢献という言葉が聞かれて久しいが、国際貢献という耳触りのよい言葉とは裏腹に、日本には海外の紛争地域における自国民の救出という国家の役割が最も求められる緊急事態に対処できないという厳しい現実がある。この問題はすぐれて人道的であると同時に、納税者に対する政府の責任(国内貢献)とも言える問題であり、今後も紛争地域における邦人救出という問題がたびたび繰り返される可能性が高いことを、認識する必要がある。

危機管理の問題に関して橋本首相は1997年5月、緊急事態への対応を模索する「橋本イニシアチブ」を発表して積極的な姿勢を見せ、9月には日米の防衛協力に関するガイドラインが策定されて、海外における邦人救出も次第に検討されるようになった。しかしながら、海外の紛争地域における邦人救出は、依然として障害も多く、実施は極めて困難な状況にある。当然のことながら、紛争地域における難民の救援はさらに困難を伴う。

フン・セン派が武力行使を行った7月5日、6日の段階で、日本人は長期・短期滞在者をあわせて約440人が、プノンペンとアンコールワット遺跡周辺に滞在中であり、紛争地域における邦人の救出、つまりカンボジアからの脱出が現実の問題として浮上した。とりわけ建設コンサルタント会社派遣の長期滞在者が7月5日、自宅を直撃した砲弾の破片を受けて死亡しただけに、日本政府としては紛争地域からの邦人の救出に全力をあげなければならない事態に直面したのである。

日本政府の対応としては、首相官邸と外務省の立場で微妙な相違が見られた。自衛隊機派遣に終始前向きの首相に対して、はじめは自衛隊機の派遣も視野に入れていた外務省が、カンボジア情勢の沈静化に伴い消極的な姿勢を示すようになったからである。橋本首相は8日の政府与党首脳連絡会議で、カンボジアからの邦人救出に航空自衛隊のC130輸送機の派遣、第三国の航空機を利用、チャーター船を利用してのメコン川からの脱出など、三通りの退避ルートを検討していると述べ、自衛隊機の派遣が選択肢に入っていることを明らかにしている(9)。また同日、梶山官房長官も記者会見で「船で南に下って、そこから陸を自動車で行くとか、いくつかのことが検討されている」と発言するなど、邦人の救出にあたっては複数の選択肢が検討されていることを示唆した(10)。

一方、外務省は邦人の建設コンサルタントの死亡が確認された7月6日、防衛庁幹部に対して自衛隊機派遣のフィージビリティーを検討するよう、非公式に依頼している(11)。このように初期段階において外務省は、邦人救出に関するあらゆる選択肢の検討に着手していた訳だが、その後、外務省は自衛隊機の派遣に関して消極論に転じていくことになる。現行法の枠内で考えれば、ポチェントン空港が閉鎖されており、「輸送の安全」を確保できる条件が整っていない訳で、法律を順守する限り自衛隊機の派遣は不可能と考えられた。後述するように自衛隊法と閣議決定という二重の制約の中で、外務省は選択肢を模索しなければならなかった。

池田外相は7月8日の参議院決算委員会で、邦人保護に関する問題を取り上げ、「安全確保について、できるだけ早く国外にと考えている。空港が戦闘で使用できないので、航空機以外の方法で国外に出てもらう方法を検討している」と述べ、民間航空機が長期間に渡って使用不能の状況が続いた場合、民間の船舶をチャーターするなどの手段で邦人を救出する方法を検討していると発言した。ここでは自衛隊機の派遣によって邦人を救出するとの踏み込んだ発言は見受けられなかった(12)。

ところが翌日から、外相の発言に変化がみられるようになった。その背景には二つの要因があったと考えられる。第一の要因はタイ空軍による救出作戦が実施されたという新たな展開であり、第二に橋本首相からの強い要請があったからであろう。池田外相が「空港が戦闘で使用できない」と発言した7月8日に、タイ空軍は軍用輸送機3機(延べ8機)を閉鎖中のポチェントン空港に派遣しており、タイ空軍の迅速な民間人救出作戦に比べて、日本政府の対応はいかにも遅れていたと、言わざるを得ない状況にあったからである。

タイ空軍が輸送機を派遣して救出作戦を実施した直後から、橋本首相のイニシアチブが表面化してくる。タイ空軍による救出作戦は、カンボジア情勢がさらに悪化する可能性を意味すると、橋本首相は受け止めたからである。橋本首相の「強い指示」によって、外務省は9日午後、防衛庁に対して自衛隊輸送機の派遣にむけた対処を正式に要請することになった(13)。しかし外務省の要請は、池田外相名ではなく領事移住部長名で行われている。本来、邦人救出の正式要請は外相名で行わなければならないが、今回は邦人救出のための「準備行為」という前例のない特殊な状況を考慮して、領事移住部長の名で要請することにしたのである。これによって、邦人救出に関する1994年の改正自衛隊法と、1993年の閣議決定から逸脱していないという法解釈が可能になった。

久間防衛庁長官は7月9日、カンボジアからの邦人救出に備え、航空自衛隊第一航空輸送団のC130輸送機3機を、愛知県小松基地から沖縄県の那覇基地に移動、待機させるよう命令した。外務省から救援要請があった場合、プノンペンに直行が可能な那覇で待機させるためである。C130輸送機は1機で約80人を輸送することができ、3機編成でプノンペンとバンコクを1日に2往復すれば、プノンペン在住の邦人をほぼ全員救出することが可能であった。しかし、この段階において防衛庁は、自衛隊機の那覇基地への移動はあくまで「準備行為」であり、実際に自衛隊機を海外に派遣するとは想定していなかった節がある。それは、那覇基地で待機していた自衛官が、海外渡航に必要な旅券を保持していなかった点から伺える(14)。

同9日の記者会見で吉川貞二郎官房副長官は、自衛隊機の待機命令に関して「プノンペンからの邦人の出国は、タイ軍用機か民間商業機による出国が最も可能性が高い。念のための措置として、事態が悪化して邦人の生命に危機が迫った場合でも、迅速に対応できるように自衛隊輸送機3機を那覇に移動させつつある」と述べた(15)。

そして11日に、橋本首相は池田外相、久間防衛庁長官、梶山官房長官と協議した末、カンボジア情勢が悪化した場合を想定して、C130輸送機を那覇基地からタイのウタパオ海軍基地まで移動させるよう指示した。首相は、「準備として、航空自衛隊のC130輸送機を那覇でなく、タイのウタパオ海軍基地まで派遣する必要がある」と発言し、外務省はタイ政府と調整に入った。首相は、「現地は平静に向かっているというが、応用動作を考えて、タイのウタパオまでは出しておきたい。何かあった場合できるだけすぐに対応できる態勢をとっておきたい」と述べ、邦人保護に万全をきすための派遣であるとの見解を示した(16)。 しかし、こうした政府による自衛隊機派遣に関して、橋本首相は首相官邸と外務省との間

で意見の相違が存在することに触れている。首相は、「外務省がなかなかうんと言わないので、柳井俊二事務次官を呼んで、『今日、閣議が終わったら、この指示を下ろすぞ』と。そして『手続きを進めろ』といったんだ」と記者団に語り、今回の自衛隊機派遣は橋本首相本人の決断であることを強調したからである(17)。

こうした経緯を経て自衛隊機は12日にウタパオ海軍基地に到着し、カンボジアからの邦人救出準備のための待機に入ったのである。しかしながらカンボジア情勢の沈静化に伴い、邦人救出のための出動ができないまま、17日にウタパオ海軍基地から撤収して那覇基地に向かうことになった。

実は日本人の救出問題は、カンボジア政変に限ったことではなく、1997年初旬にアルバニアでも起きている。1997年にアルバニアでネズミ講式の投資機関が破綻し、人口340万人のうち50万人が被害にあった。被害金額は10億ドルといわれ、同国の国内総生産(GDP)の4割に相当するもので、金融破綻をきっかけに反政府暴動が発生し、瞬く間にアルバニアは無政府状態となり内戦が全土に拡大した。このためアルバニアに長期滞在していた外国人の生命が危険となったため、米国とドイツは軍用輸送機を緊急に派遣する決定を下した。ドイツ連邦軍はヘリコプターを出動させてドイツ人20人の救出に当たり、その際、日本人10人を含む22ヵ国の計130人を救出し、マケドニア経由でドイツ・ケルンに空輸し実績をもつ(18)。今回、ドイツ連邦軍は非戦闘員の救出作戦を、NATO域外で初めてNATO軍と共同ではなく、単独で展開することに成功した。ドイツ連邦軍の救出作戦によって、日本人が無事救出されたことは特筆に値する。このように無政府・内戦状態のアルバニアにいてドイツは連邦軍を派遣し、非戦闘員を救出できたのに対して、未だに日本は紛争地域における邦人と外国人の非戦闘員を救出することが可能ではない。

なぜ邦人救出ができないか−改正自衛隊法の矛盾

阪神淡路大地震においては、国内の危機管理体制が不備であることが指摘され、カンボジア政変では国際的な危機管理に問題があることが露呈された。海外における邦人の救出という限定された危機管理の問題に絞っても、さまざまな制約要因が見えてくる。第一の要因は、改正された自衛隊法に見られる矛盾点であり、第二の要因は自衛隊法の運用に関する閣議決定の内容である。

1994年11月11日の自衛隊法改正によって、邦人の救出に自衛隊機を利用することが可能となったが、その内容は矛盾に満ちたものである。「在外邦人などの輸送」を定めた自衛隊法100条の八は、「防衛庁長官は、外務大臣から外国における災害、騒乱その他の緊急事態に際し、生命または身体の保護を要する邦人の輸送の依頼があった場合、当該輸送の安全について外務大臣と協議し、これが確保されていると認めるときは、自衛隊の任務遂行に支障を生じない限度において、航空機による当該邦人の輸送を行うことができる。」と規定し、外国人に関しても「この場合、長官は、外務大臣から当該緊急事態に際して生命または身体の保護を要する外国人として同乗させることを依頼された者を同乗させることができる。」と明記している。

海外における邦人および外国人の救出は、第一に海外で緊急事態が発生していること、第二に輸送の安全が確保されていること、第三に輸送の手段は航空機に限っており、船舶使用できないこと、そして第四に外相が防衛庁長官に依頼することによって、はじめて可能となる。緊急事態の発生という条件と、輸送の安全が確保されるという条件は、一般的に考えて矛盾しており、自衛隊機派遣は、両者の矛盾した条件を満たす必要がある。また同法は航空機(原則として政府専用機のジャンボ機、状況によって自衛隊機)による救出を規定しているものの、船舶による邦人の救出を規定していないという点でも、運用上の問題を抱えている。

こうした制約条件の下で実施された自衛隊機派遣は、自衛隊法100条の八ではなく、同条項の「準備行為」として行わなければならなかった事情が理解できよう。同法には「準備行為」という文言はなく、矛盾した条件の下で自衛隊機を派遣するために工夫された正当化の手段に過ぎない。こうした工夫は、派遣要請文書にも見ることができる。正式の派遣であれば、外相が防衛庁長官に依頼することになっているが、今回の自衛隊機派遣は領事移住部長名で要請されており、こうした点でも自衛隊機派遣は苦汁に満ちた選択であったことが伺える。

自衛隊法の改正は、当時社会党(現社民党)出身の村山富市首相の時に実現したものだが、矛盾した条件が並記された主な理由は、「邦人の救出を名目に、自衛隊の海外派兵が行われるのではないかとの国民の疑念を払拭する」という、社会党の主張を受け入れたためである(19)。同様の指摘は土井たか子・社民党党首によっても行われている。土井党首は7月12日、政府が自衛隊機派遣の理由にしている「準備行為は自衛隊法に書いていない」と批判、さらに「94年の自衛隊法改正時に邦人救出が海外派兵につながってはいけないということで大きな議論になった」点を指摘し、自衛隊機の海外派遣に反対の姿勢を示した(20)。これは、そもそも矛盾に満ちた自衛隊法を根拠に批判したもので、法的には正しい。しかし、こうした議論に見られる最大の問題は、自衛隊による邦人救出という人道的な問題を、自衛隊の海外派兵という局面から捉えることにある。ここで乗り越えるべき課題は、自衛隊法の矛盾点と海外派兵への不安感の二点に求めることができよう。

海外で緊急事態が発生し、邦人の救出が求められるような事態では、自己完結型の軍隊機能をもった救援隊しか作業が可能ではない。警察、消防、海上保安庁などは、いずれも平常時における作業を前提として訓練が実施されており、電気、ガス、水道、食事などの設備が整備され、武力紛争の状況にないことが作業の前提条件となっている。武力紛争の危険性があり、日常的な生活条件が整備されていない環境における作業の担い手は、国際的な常識から判断すれば軍隊しか存在しない。社会党の意向を反映した村山首相の判断は、こうした国際的な常識に背を向けて、海外派兵の可能性という局面から、自衛隊の危険性を指摘したに止まっており、邦人救出という人道的な問題で、いかにして自衛隊を活用するかという問題意識が希薄となっている。

改正自衛隊法の施行に関しては、1993年11月5日の閣議決定が邦人救出に関する運用をさらに規定している。閣議決定によると第一に邦人輸送を実施する場合、必要に応じて閣議の決定を行う、第二に輸送の安全が確保されない場合は、輸送を実施しない、第三に輸送は政府専用機のジャンボ機で行う、第四に政府専用機の使用が困難な場合は、自衛隊機を使用する、第五に戦闘機による護衛は行わず、第六に派遣先国で邦人・輸送機を防護するために武器を携行せず、使用もしないが、機内での不測の事態に備えて携行する拳銃に限っている(21)。ここにおいても、輸送の安全が確保できなければ邦人救出は実施しないことが明記されており、紛争地域における邦人救出という緊急事態に対応できない仕組みを作り上げている。

橋本イニシアチブと日米ガイドライン

カンボジア政変に際して、橋本首相は自衛隊機の派遣に積極的な姿勢を見せたが、これは危機管理に対する首相の終始一貫した方針である。1996年4月に橋本首相とクリントン米大統領は、日米ガイドラインの見直しを盛り込んだ日米安全保障共同宣言に署名している。これを背景に同首相は1996年5月10日、極東有事における日米協力の在り方について触れ、日米協力は在外邦人の救出と大量難民の受け入れ問題から検討する点を明らかにした。さらに日米防衛当局者の作業部会では(1)邦人保護、(2)大量難民対策、(3)沿岸・重要施設警備、テロ対策、(4)対米後方支援などが検討されることになった。5月13日には、内閣官房、外務省、防衛庁などに対して、有事法制の研究を始めるように指示しており、この中に海外における邦人の保護と大量難民への対応が検討項目として入っている(22)。

こうして橋本首相のイニシアチブで、邦人救出に関する研究が開始され、1997年9月23日に発表された「日米防衛協力のための指針」(日米ガイドライン)にもこの点が盛り込まれることになった(23)。日米ガイドラインでは、「日本国民又は米国国民である非戦闘員を第三国から安全な地域に退避させる必要」があった場合、日米両国は「これら非戦闘員の退避に関して、計画に際して調整し、また、実施に際して協力する」と明記し、さらに避難民への対応に関しては、「日米両国政府は、被災地の現地当局の同意と協力を得つつ、救援活動を行う」と規定している。邦人救出に関する日米協力ガイドラインは、カンボジア政変における邦人救出という具体的な問題を背景に、取りまとめられたことになった。このように、邦人救出や避難民の救援に関して日米協力の可能性が生まれたにせよ、現行の自衛隊法が存在し、1993年の閣議決定が有効な限り、紛争地域における邦人の救出や避難民への対応はできない。

第2節 大量難民への救援問題

大量難民への人道救援

日本にとってのカンボジア政変は、おもに邦人の救出という人道的な問題に集約されることになったが、この政変によって多数の難民が発生する可能性があった点を見落としてはならない。プノンペンでの武力衝突がほぼ2日間で終了したため、大量難民の発生にはいたらなかったが、両派の小規模な武力衝突が数か月間続いているカンボジア北部や西部では、避難民がタイ国境へ移動するなど、難民問題が散発的に発生している。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が本格的に介入する段階まで達していないことからも理解できるように、今回は難民問題が重大なテーマとして浮上していない。しかし、仮に両派の武力衝突が首都を中心に大規模化・長期化した場合は、大量難民の発生が十分予想された訳で、日本としては邦人救出への対応と並行して、大量難民への救援という国際的な人道援助問題への対応も問われることになる。

冷戦後の世界においては、一般に国内における複数の政治勢力が対立し、激しい武力衝突を伴った時に、大量の難民が突如発生している。旧ユーゴスラビア、ルワンダ、ザイール、アフガニスタンなどは、その代表的な例である(24)。こうした国内対立は、民族、部族、宗教、党派、利権集団の相違など、さまざまな理由で発生しており、内戦状態が訪れると国家の解体現象が出現することになる。冷戦後の世界における最大の悲劇は、内戦によって国家が解体し、大量の難民が突如発生したことであろう。国家が解体した状態においては、あらゆる非戦闘員を保護してくれる政府、警察権力、軍隊が存在しない。非戦闘員は自らの手で自衛しなけばならないのだが、そうした自衛には限界もあり、市民生活そのものが破綻し、生命が危機的な状況に置かれていくことになる。内戦という国内武力紛争の中で、非戦闘員の市民は難民として移動を強いられることになる。こうして破綻国家における非戦闘員や難民の救援は、国際人道援助機関が取り組まなければならない最大の問題になった(25)。

UNHCRの役割

国際人道援助機関の中で、冷戦後の難民問題解決に最も貢献しているのはUNHCRや国際赤十字である。とりわけUNHCRは国連機関として、世界の難民問題を集中的に処理する専門機関として位置づけられており、日本の緒方貞子女史が国連難民高等弁務官に就任していることもあり、日本とは密接な協力関係にある。しかしUNHCRの全職員でも約5500人であり、世界中の難民問題に関与することは常識で考えても不可能である。このため、UNHCRは限られた予算とスタッフを効果的に運用するため、政策の優先順位を決めている。最優先項目として位置づけられているのが、難民発生直後の緊急援助である。緊急援助を迅速に、効果的に実施するため、UNHCRは複数の先進国とは国ごとにサービス・パッケージという協定を締結している。サービス・パッケージ協定を締結した国は、UNHCRからの支援要請を受理した段階で、自己完結型の軍隊などを動員して、難民の救援活動を独自に行う。特定の援助国が提供できる資金、人材、機材、具体的な支援活動などのサービスを一つのパッケージにして、UNHCRが当該援助国と協定を結ぶ仕組みとなっている。もちろんUNHCRとの政策調整を行いながら難民救援を実施するわけで、サービス・パッケージを締結した国が、難民救援という目的から外れて、暴走することはないような仕組みもできている。

日本の国際貢献に見られる一つの問題は、日本は資金だけを提供するのみで人的に日本のプレゼンスがない点だと、しばしば指摘される。国際的な人道援助の世界で、人的に貢献する方法は多様であるが、その一つの有効な方法はUNHCRとサービス・パッケージ協定を締結して、自給自足・自己完結型の機能をもつ自衛隊が大量難民への救援活動に参加することであろう。もちろん、全世界の難民問題に関与するのは非現実的であり、また不可能である。UNHCRが日本に求める救援要請と、日本の国益が一致する点で、取り敢えずは大量難民問題に取り組めばよい。日本周辺で有事が発生し、大量難民問題が提起された場合を想定すると、こうした難民問題に対応する一つの有効なアプローチが、UNHCRとのサービス・パッケージ協定なのである。

こうしたサービス・パッケージ協定を調印しても、紛争地域などで難民救援を実施できるのは、自給自足が可能な軍隊である。日本の場合は自衛隊に依存しなければならない訳だが、現行の自衛隊法と国際平和協力法では、自衛隊を紛争地域に派遣できないようになっている。すでに指摘したように現行の自衛隊法では、「輸送の安全」が確保できない限り航空機を派遣できない。

国際平和協力法の限界

「人道的な国際救援活動」に参加することを可能にしている国際平和協力法は、いわゆる国連平和維持活動(PKO)参加5原則によって自衛隊の活動を制約している。同法では、紛争当事者間で停戦の合意が成立していること(停戦)、紛争当事者が日本の参加に同意していること(同意)、日本が中立的な立場を厳守すること(中立性)、上記の条件が満たされない時は日本の参加部隊は撤収すること(撤収)、そして武器使用は自衛に限ること(自衛のための武器使用)が規定されており、これを一般にPKO参加5原則と呼んでいる(26)。日本のPKO部隊が国際人道活動に参加するためには、UNHCRなどの国際人道援助機関からの要請が必要であり、日本政府が独自に判断して自衛隊をPKO部隊として、世界各地に派遣できないようになっている。さらにPKO参加5原則が前提条件となっており、現実には内戦などが続く紛争地域で、難民救援活動が実施できない仕組みとなっている。さまざまな制約要因のなかで、日本の自衛隊がPKO部隊として派遣されるのである。こうした前例としては、1994年に実施されたルワンダ難民への支援がある(27)。

このように日本の国際人道救援活動は、武力紛争が終結した段階においてのみ可能であり、紛争下の難民に対して緊急性のある人道支援はできない(28)。日本は武力紛争に巻き込まれる危険性は回避しなければならないが、紛争下の難民を救援するという、緊急性が高い国際的な人道救援活動が不可能になることも、同時に避けなければならない。こうした相反する条件を乗り越えるために、日本はUNHCRとの共同作業に限定して、国際平和協力法を改正し、国際的な人道救援活動に参加できる道を切り拓くべきであろう。

第3節 政策提言

カンボジア政変における邦人救出は、タイ空軍などの外国軍隊や、外国の民間航空機に依存するほかなく、日本は独自に国民を救出することが全くできなかった。このように、緊急性のある人道的な問題に対しても外国政府に依存しなければならない状況を、日本としては早急に脱する必要がある。グローバル経済が進む中で、日本人の海外渡航は年々増え、長期滞在者は60万人を超え、観光客などの短期滞在者も1500万人を記録するまでになっている。多数の邦人が内戦や紛争に突如巻き込まれて、救出を求める可能性が発生することは今後も十分ありえる。

また内戦や地域紛争によって大量の難民が突如発生し、国際的な人道援助問題として日本が直面しなければならない事態も十分ありえる。今回のカンボジア政変においても、タイ国境地帯では多数の難民が発生したのであり、大量の難民発生は現実の問題として、今後も浮上する可能性は否定できない。紛争地域における難民の救援や、日本周辺に大量の難民が出現した場合、日本としては、いかにして国際的な人道救援が求められる緊急事態に対処したらよいのであろうか。こうした問題を現実的に解決するために、以下のような政策オプションを提案する。

  • 紛争地域における邦人救出が現実に実施できるように、矛盾に満ちた自衛隊法を改正すべきであり、閣議決定も修正すべきである。救出の手段としては現行法の輸送機(政府専用機、自衛隊機)の他に、自衛艦などの船舶も加える。

  • 邦人救出のための輸送機派遣は閣議決定を前提としているが、緊急事態への対応を迅速にするため、首相・官房長官・外相・防衛庁長官の四者協議でも可能とし、最終的には首相の決断に委ねる。

  • 自衛隊内部に緊急援助隊を特別編成し、海外の紛争地域における邦人・外国人の救出、さらに難民への救援活動などを専門に処理する特別部隊とする。この特別部隊は、邦人などの保護を目的に、小火器を携行できるようにする。特別部隊の創設によって、自衛隊の海外派遣が海外派兵につながるという、かつての社会党が危惧した問題も除去できる。

  • 日米防衛ガイドラインに盛り込まれた非戦闘員の救出については、日米防衛協力を一層深化させる。またカンボジア政変で非戦闘員の救出作戦を実施したオーストラリアやASEANなどとの政策協議を進展させ、日本は多国間協力の可能性を探るべきである。

  • 紛争地域における大量難民への対応は、UNHCRとサービス・パッケージ協定を結ぶ。UNHCRとの政策調整を経て、自衛隊を国際的人道救援活動に参加させる。

  • UNHCRとの共同作業に限って、日本のPKO部隊を紛争地域における難民救援に派遣できるように、国際平和協力法を改正すべきである。UNHCRと連携した難民救援活動については、紛争当事者による停戦と、日本への参加合意を前提条件としないように、国連平和協力法を改正する。

    <注>
    (1) 『朝日新聞』1997年7月8日夕刊
    (2) 『東京新聞』1997年7月6日
    (3) カンボジア「政変」の政治的背景と意味を理解する上で、以下の文献が参考になる。
    今川幸雄「カンボジアの平和と安定のために」(『世界』1997年9月号)、同『現代真蝋風土記』(KDDクリエイティブ、1996年)、小倉貞男「カンボジア政変とクメール・ルージュ」(『世界』1997年9月号)、竹田いさみ「カンボジア「政変」の分析視角」(『外交時報』1996年10月号)、鶴田亀良「カンボジア「政変」の背景と原因」同上、友田錫「カンボジア和平は幻だったのか」(『中央公論』1997年9月号)、山岡邦彦「政治的緊張が続くカンボジア情勢」(『外交時報』1996年10月号)、メPuppet Premiers,モ South China Morning Post, August 7, 1997; メPol Pot must be eliminated,モ The Straits Times, June 28, 1997; Sorpong Peou, メInsecurity dilemma haunts Cambodia,モ Jakarta Post, August 3, 1997; メHun Senユs CambodiaミIf you please,モ Bangkok Post, July 20, 1997; メIt is up to Hun Sen,モ The Straits Times, July 19, 1997; メCambodia: Law of the Gun,モ Far Eastern Economic Review, July 17, 1997; メCambodia: Ambiguous Alliances,モ ibid., July, 1997; メCambodia: The Deal that Died,モ ibid., August 21, 1997; メCambodia: Help Wanted,モ ibid., July 24, 1997; メHun Senユs ヤCoupユ,モ Asiaweek, July 18, 1997; メCambodian Quagmire,モ ibid., July 25, 1997; メCambodia: Caught in the middle,モ ibid., August 15, 1997.
    現代史という観点からは、ミルトン・オズボーン(石澤良昭監訳・小倉貞男訳)『シハヌーク:悲劇のカンボジア現代史』(岩波書店、1996年)、永井浩『カンボジアの苦悩』(勁草書房、1994年)、国王一族を解説した『朝日新聞』1887年7月18日付け記事、東南アジアの国際関係を考える上で、岡部達味編『ポスト・カンボジアの東南アジア』(日本国際問題研究所、1992年)、ポル・ポトをめぐる国際法廷については、坂口智「カンボジア国際法廷−その可能性と問題点」(『外交時報』1996年10月号)が参考になる。 またカンボジア和平プロセスについては、明石康『忍耐と希望:カンボジアの560日』(朝日新聞社、1995年)、池田維『カンボジア和への道:証言日本外交試練の5年間』(都市出版社、1996年)、三好範英『特派員報告カンボジアPKO:地域紛争解決と国連』(亜紀書房、1994年)、小倉貞男「ポスト冷戦とカンボジアの国民和解」三尾忠志編『ポスト冷戦のインドシナ』(日本国際問題研究所、1993年)、Sorpong Peou, Conflict Neutralization in the Cambodia War from Battlefield to Ballot-Box, Kuala Lumpur: Oxford University Press, 1997が参考になる。
    (4) メEditorial: The Coup in Cambodia,モ International Herald Tribune, July 10, 1997; メEditorial: Hun Senユs coup,モ ibid., July 11, 1997; メEditorial: Cutting off Cambodia,モ ibid., July 14, 1997; メStand up to Hun Sen,モ ibid., August 27, 1997; メCambodia casts long shadow over ASEANユs celebrations,モ Financial Times, July 23, 1997; メASEANユs mid-life crisis,モ ibid., July 24, 1997; メSouth-East Asia loses its grip,モ The Economist, July 19, 1997; メThe tigersユ fearful symmetry,モ ibid.; メCountdown to a coup,モ The Weekend Australian, July 12-13, 1997; メEditorial: Cambodia response too weak,モ The Australian, July 18, 1997; メCambodia receives the wrong signal,モ ibid., July 22, 1997; メCambodian power play: Back to square one,モ Far Eastern Economic Review, July 17, 1997; メEconomies: For Cambodia, how bad is the post-coup fallout?モ ibid., July 31, 1997; メA Coup in Cambodia,モ Newsweek, July 21, 1997; メHun Senユs ヤCoupユ,モ Asiaweek, July 18, 1997; メThe Cambodia jigsaw puzzle,モ Bangkok Post, August 10, 1997; メEditorial: Illegal, immoral and invalid in P. Penh,モ ibid.; メStand Up to Hun Sen,モ International Herald Tribune, August 27, 1997. ポル・ポトの近況については、メBrother Number Zero,モ Far Eastern Economic Review, August 7, 1997。
    (5) メFighting Escalates,モ Far Eastern Economic Review, January 8, 1998.
    (6) 『読売新聞』1997年7月8日
    (7) 『朝日新聞』1997年7月12日
    (8) 『産経新聞』1997年7月13日
    (9) 『読売新聞』1997年7月9日
    (10) 『朝日新聞』1997年7月8日夕刊
    (11) 『朝日新聞』1997年7月18日
    (12) 『朝日新聞』1997年7月8日夕刊
    (13) 『読売新聞』1997年7月10日
    (14) 『朝日新聞』1997年7月18日
    (15) 『朝日新聞』1997年7月9日夕刊
    (16) 『読売新聞』1997年7月11日夕刊
    (17) 『朝日新聞』1997年7月11日夕刊
    (18) 『朝日新聞』1997年3月13日夕刊、『読売新聞』1997年3月15日夕刊
    (19) 『朝日新聞』1994年11月2日
    (20) 『日本経済新聞』1997年7月13日
    (21) 『朝日新聞』1993年11月5日夕刊、『朝日新聞』1994年11月11日夕刊、『産経新聞』1994年11月12日
    (22) 『日本経済新聞』『朝日新聞』『読売新聞』各紙の1996年5月11、14日、『朝日新聞』5月17日、『読売新聞』5月30日
    (23) 日米ガイドラインの経緯、特色、問題点については、船橋洋一『同盟漂流』(岩波書店、1996年)および「ハンドブック−新ガイドラインって何だ?」(『世界 別冊』1996年10月号)を参照。
    (24) Worldユs Refugees in Search of Solutions, Oxford: Oxford University Press, 1995; メInternational Federation of Red Cross and Red Crescent Societies,モ World Disaster Report 1996, Oxford: Oxford University Press, 1996.
    (25) 国際人道機関の課題と役割を考える上で緒方貞子「人道分野における国連活動」(『国際問題』1995年11月)は必読である。その他に緒方貞子『難民つらぬく世界へ』(岩波書店、1996年) が参考になる。
    (26) 国際平和協力法については、神余隆博『新国連論−国際平和のための国連と日本の役割』(大阪大学出版会、1995年)第4部および神余隆博編『国際平和協力入門』(有斐閣、1995年) 第5章および第6章を参照。
    (27) 角茂樹「自衛隊ルワンダ難民支援の検証」(『外交フォーラム』1995年3月号)、および神余隆博編、前掲書、第6章。
    (28) こうした問題を考える上で、竹田いさみ「日本外交のフロンティア−難民・PKO・ODAの政策インターフェース」(『外交フォーラム』1997年3月号)。


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